児童虐待死はすべて殺人である 警察も学校も共犯の殺人鬼だ

「聖香さん、なぜ死ななくてはならかったのか」

必ず決まり文句をほざくが、「しつけ」で人は死なない。

わずか9歳の松本聖香ちゃんの遺体は「山中」で見つかったのである。
弔われることもなく。

これが殺人でなくてなんなのか?

寒い時期にベランダに放置され、一夜を過ごす。
女児の悲鳴と男の怒声。

女の子の悲鳴を聞いた住民が「DVでは」と110番を受けて訪問した署員に、実母の松本美奈容疑者は「夫婦げんかです。大丈夫です」と答えた。

署員は「静かにしてくださいね」と注意して引き揚げた。

聖香さんの顔のあざを見つけた教諭が松本容疑者に事情を聴くと、

「聖香はうそをつく癖がある。自分で顔をぶつけたんです」。教諭は引き下がらざるを得なかった。

サインは「届かなかった」のではなく「受け取られなかった」のだ。

聖香さんの周囲は何となく異変を察知しながらも、巧みにごまかされた。関係者は「もし何かの偶然が重なって虐待がはっきりと分かっていれば…」と話す。

自分の子供であるならごまかされることは絶対になかったろう。
犯行を隠そうとする相手の落ち度が重なることを期待するなら、子供は死に続けるしかない。しかし、ほとんどの場合、彼らの犯行は外から見えている。

無抵抗な被害者にDVを繰り返す大人。

加害者が「私は虐待をしています」と言わなければ踏み込めないということか。
恐ろしい話だ。子供は自力で脱出することもできないのに。

子供が誘拐され、監禁されて、同じように虐待され死に至ったなら、社会はもっとわかりやすく被害者のおかれた地獄を想像できるだろう。

すぐそばで悲鳴をあげている子供を見殺しにする社会。
繰り返し繰り返し繰り返す。

聖香ちゃんは大人たちに殺されたのである。

この上、判決が通例の傷害致死なら、共犯者がもうひとり増える。

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