チェ・ゲバラの人となり

三好徹著、チェ・ゲバラ伝を読んで

チェ・ゲバラの「人となり」に関する記述を要約してみた。
チェ・ゲバラに関する著書は沢山あり、ここにあるものが事実に忠実であるという保証はない。

喘息のため満足に小学校にも通えず、母親から勉強を習う。

13歳の時、両親に、
「一人旅をしていろいろ見て回りたい。学校が始まる前には帰ってきます」
と頼み、初めての旅に出る。

カトリックの強いアルゼンチンにおいて珍しく、教会でゲバラ家のものを見たものがいなかったという。とくに母親は完全な反宗教家だった。

ハイスクールに通う頃にはかなりの読書家となった。
14、5歳ですでにフロイトを読んでいた。
フランス語で詩を読んでいた。フランス語は母親から教わった。
チリ生まれのパブロ・ネルーダという詩人には特に愛着を持っていた。
のちに革命戦争のさなか、密林の中でさえゲーテを読んだ。
チェ自身も詩人であり、文才が秀でていた。

「価値有る人間は皆、勉強して大学を出るべき」とする母親の信条に影響され、チェも従う。

本の虫ではなく、サッカーやラグビーもやった。喘息の発作を起こすたび吸入器で鎮め、収まるとまたプレイを続けた。

一日、6時間もアルバイトして学業を続けた。
時間通りに出勤するものなどなかったが、チェだけが唯一時間を守っていた。
真面目ぶりを認められ昇給するが、チェは同僚が出勤してくるまでの時間を利用して、自分のために哲学語辞典を作っていた。

友人の兄であり、チェに多大な影響を与えたアルベルト・グラナドスがストライキに参加して逮捕されたとき、「あとに続く学生たちは、我々が裁判もなく捕まっていることを大衆に知らせるために街頭行動をやるべきだ」というと、13歳のチェが

「その必要はない。銃さえあれば僕は出ていく。」と言って驚かせた。

音楽の才能は音痴?だったらしい。
ラテンアメリカの若者なら大抵ひけるギターもひけなかった。

学校の試験について
チェは年末になると決まって旅に出た。他の者は試験に備えて勉強したが、「旅ばかりしていたら落第するんじゃないか?」という仲間の心配も、彼は自信たっぷりにパスして見せるといいきり、しかもたいてい首席でパスしたという。

24歳になっていたアルゼンチンの医学生、チェは、マイアミで毎日図書館に通っていた。一日ミルクコーヒー一杯で過ごしたが、カフェテリアの主人がチェを気に入り、食べ物をくれるようになった。

こんな文無し旅行を長期間続けられたのも、チェの人間的魅力によるものであった。
ブエノスアイレスに戻ったのは、アルゼンチンを出てから8ヶ月、旅の全行程は2万キロに達していた。

旅行で身につけた習慣のひとつに日記をつけることがあった。
チェの日記の特徴は医師のつけるカルテのごとく、絵入り、図入りだった。

旅から帰ってチェは、まず、母親との約束を果たさねばならなかった。
それは大学を卒業すること。12課目も残っていたが見事にパスした。
かくしてチェは医学博士号を得た。論文はアレルギーに関してのもの。

アルゼンチンにとどまる限り、独裁者ペロン政権の軍医として徴用される可能性が高いことを悟ったチェは、アルゼンチンを脱出した。
当時、結婚の約束まで交わした上流階級の彼女がいたので、いずれは戻って定着するものと友人たちは思っていたが、その後のチェの足跡は、
「なぜ、あんなにいい未来を棄ててしまったのか?」と彼らを不思議がらせた。

■パナマ~グアテマラ~メキシコ
途中、車にチェを乗せたアルゼンチン人
「彼は静かな男だったけども、強い印象を与えた。美しい顔を持っていた。
中央アメリカで見てきた貧困に心を動かされているようだった。
全世界の不正に対して責任を感じているようであった。
衣類を与えた。彼は何も持っていなかった。
身につけているのはまさにボロ切れそのものだったのである。」

キューバ人亡命者ダリオ・ロペス
グアテマラでチェをはじめて見たとき、彼は底の抜けた靴を履いていた。シャツはズボンから半分はみ出ていて、いつも同じものを身につけているように見えた。
このころ喘息のため寝たきりで、仲間の顔を見るたび
「ぼくが借りられるズボンかシャツを持っていないか?」とよくいった。


CIAの援助を得てグアテマラにアルマス軍が侵攻してきたとき、チェは銃をとって戦うべきだと説いた。自身も最前線に送って欲しいとグアテマラ政府に頼んだが、アルマス600、グアテマラ軍7000という兵力の差に政府はノンキに構えていた。

しかし、軍と密接な結びつきを持たなかったアルベンス政府は連携がとれず、
軍との衝突を避けて、グアテマラ市に侵入したアルマス軍に一週間で陥落させられた。
アルベンスはメキシコ大使館に亡命。アルマスが大統領に。

アルマスは血の粛清を始め、人々を煽動したチェも処刑者リストに載せられた。
チェはアルゼンチン大使館に避難する。

ニューヨークタイムズの記者、ハーバード・マシューズはいう。
チェ・ゲバラはグアテマラにおいては共産主義ではなかった。
のちに逃れたメキシコにおいてもそうだった。
カストロに率いられたキューバの全首脳部がマルクス・レーニン主義に移行するまで、いかなる共産主義に属することはなかった。

最初の妻、イルダ・ガデアとの間に子供が出来たとき、アパートの家賃を値上げされてしまう。チェはツテを求めて個人的診察のアルバイトをしようと決めた。
同志であるキューバ人夫婦と歩いていたとき、チェが歩を止めて言った。
「医師は白い服を着て病人から金を搾り取っている。しかし、そんなことをするべきではない。個人的に金が必要だからといって持論を曲げるわけにはいかない。やっぱりこんなアルバイトはやめるよ。」

■グランマ号、キューバ上陸~キューバ革命
キューバ反乱軍内の仲間とのやり取り
「クーデターを起こせばそれでよい。バチスタは一日で権力を握った。我々も同じことをやればよい。」
チェは強い口調で、
「権力を握ることではなく、握った後にどうするか決めておくことだ。」

ゲリラ戦士として訓練を受けていたとき
メルバ女史
「射撃の最も上手かったのはカストロで、2番目はチェだった。」
パヨ将軍
「最も優秀な卒業生はチェ・ゲバラだ。」

グランマ号上陸の際、チェが中学生の頃発行されたアルゼンチンの市民証をまだ持っていた。堅いボール紙で出来たものでシャツに入れていたが、弾丸がそれにあたったために致命傷にならずすんだ。という話がある。

キューバ政府軍に囲まれたとき、チェは性能の悪い銃を持っていた。
軍医であり船酔いと喘息に苦しんでいて、優秀な武器を持ってそれを失うことがあってはならないと、他の者に優秀な武器を渡すよう自ら志願していたからであり…

政府軍の補給拠点でトラックを待ち伏せ襲撃した際、負傷した政府軍の兵を、隊員の一人が射殺した。殺さずに捕虜とすることもできたはずだった。
この隊員は反乱軍の一員だという理由で家族の大半を政府軍に殺されていた。
あだ討ちの気持ちがあったろうが、チェはこの隊員の行為を、革命軍としてふさわしくないと激しく叱った。

チェは政府軍の兵士から奪った鉄帽をかぶっていた。ジャングルで待ち構えていた反乱軍前衛部隊がこれを見つけたが、遠かったので仲間であることに気づかなかった。
だが、彼らの銃は整備中で使えるのはカミーロの一挺だけだった。名手カミーロは引き金を引くが命中せず、もう一度引くと銃が故障して弾は出なかった。

パリ・マッチ誌の特派員、エンリケ・メネセスがチェに会ったときの印象について
「ゲバラには心から献身している数人の部下がいて、彼らは、革命にとってカストロよりゲバラの方が重要だと考えていた…
カストロが夢を見ることが出来るとしたら、チェ・ゲバラはその内のいくつかを現実のものとすることができる、というのが当時の感想だった。」

■革命を成し遂げて
ラテンアメリカ全土の新聞記者たちはこの奇跡の革命の立役者としてチェ・ゲバラを取り上げたがった。はじめは断っていたが、ついに拒みきれず記者会見に応じた彼は、言葉すくなに「私の指揮下にあった勇敢な人たちや理想に殉じた人たち、このすぐれた人たちの協力なしには成し遂げられなかったろう」と語った。

いついかなるときも日記をつけることと読書を怠らなかった。
シエラマエストラでもゲーテを読み、セルバンテスを読み、マルクス・レーニンの著作に目を通していた。

キューバ革命後の演説の中で
私は医師として出発した。誰もがそうであるように、わたしも成功を願っていた。
有名な医学研究者になることを夢見ていた。・・・
しかし、そのころ獲得しようとしていたものは個人的な成功だった。・・・
旅行することでアメリカ全土を知った。・・・
医学に重要な貢献をすることと同じくらいに大事なことがあることを知った。
それは、貧困、飢え、病気の人たちを救うことだった。

家族のものが買い物に出るとき、チェの乗用者を使おうとすると、「私用の買い物にキューバの車とガソリンを使うとは何事か」と叱ったという。

キューバの工業相時代に秘書だったメルセデス・エンリケ・ロカ女史は
「チェは非常に質素な人で決して華美なものは使いませんでした。また、よく働きました。ときには毎晩、3時4時になることがあっても朝の出勤時間に遅れたことは一度もありませんでした。自分も仕事をよくしたが、人にも強要しました。また、非常に倹約家で、ものが無駄に使われないよう気をつけていました。マテ茶とタバコが好きでした。」

同じく、部下だったゴンサロ・アルブエルネ氏は
「いろいろな国の使節がきてプレゼントをしたがすべて人にあげていた。子供に対するものであっても部下にあげてしまって家に持ち帰ることは絶対になかった。食べ物について実に質素だった。配給ものだけで満足していた。キューバでは誰でも知っている。反革命分子でさえ、チェが革命に対して献身的であったことは否定できない。彼は困窮している人々と同じ状況に身をおいて働いたのです。」

少なくともアメリカ国務省やその背後にあるアメリカ資本をまったく信用していなかった。グアテマラ以後はそれらに対する戦いに終始したといっても過言ではない。
完全、かつ徹底的にアメリカ嫌いであった。

彼が酒好きであると書いた本もあるが、彼をよく知る人たちは一様にそれを否定している。パーティでよく出たブドウ酒もいつも水で割っていた。

■日本
チェは富士山にも登った。五合目まで車でいき、九合目あたりまで登ったが汽車に間に合わなくなるため、途中で引き返した。

久保田鉄鋼境工場で一行を案内した人
「どちらかというと傲然たる態度に見えた。-まるで聞き流すような態度だった。お高くとまっているという印象を受けた。」

須磨未千秋経済局米州課長
「色白の物静かな男という印象。ラテンアメリカ人としては珍しいと感じた。」

日本キューバ協会理事長、居作精太郎氏
「忘れられないのは彼の眼である。じつに澄んだ眼で、ああ、死線を超えた人間の眼だなと思った。」

約束をきちょうめんに守る男で、カストロに関する記事の切り抜きを渡した。ラテンアメリカ人との約束は当てにならないものだが、のちにカストロの秘書から礼状が届いた。」
「目が澄んでいた」「無口であった」という共通の印象を人々に与えている。

チェは広島に行きたがったが、日本側は行かせたくないようだった。結局、一行は自腹で広島に行き、原爆慰霊碑に献花した。
来日当初、広島訪問は予定に無かったが、関西旅行の際、広島が近いと聞くと、他の日程をすべてキャンセルしても原爆慰霊碑に献花したいといいだした。

当日、チェは戦闘服姿で1500円の花束を捧げ死者の霊を弔った。
このあと資料館に入った。さまざまな陳列品を見るうち、それまでほとんど口をきかなかったチェが英語で、

「きみたち日本人は、アメリカにここまでされて腹が立たないのか?」

と原爆被害のすさまじさに怒りを見せた。

平均3、40分のところ、一時間という、少し長めの見学だった。
翌朝、ホテルの会計の際、明細を見たチェがフロントに抗議しはじめた。
一行のために大阪の外務省連絡事務所にかけた電話代が、キューバ側の負担になっていたからだった。
「こんな電話はかけた覚えがない」と強い口調でフロントに抗議したという。

日本から帰った直後、キューバの中央銀行において
チェは残ったトラベラーズチェックを一枚一枚サインして返していた。
目撃した、農業改良局、水産顧問梶山氏は
「余ったからといって返す人を見たのは初めてだった。」

帰国後、テレビによる諸国歴訪の報告会に出た。
その席に招かれた外交官は日本大使だけだった。

チェが、
「第二次大戦の時、ハイスクールの学生だった自分は日本の帝国主義的侵略に憤慨した。原爆によって日本が敗戦したときは快哉を叫んだ…」
といったとき、司会者が「日本の大使が会場に来ている」というと、チェは、

「…快哉を叫んだが、しかし、ヒロシマを訪れて見て戦争というものの悪、原爆の残虐さを痛感し、これを使用したアメリカに対して憎しみを感じた」と言葉をつなぐ機転を見せ、さらに日本の工業力を賞賛したという。

日本訪問後のチェは文章や演説の中で日本の工業力をほめている。
また、「世界の人民にあてたメッセージ」の中で、広島、長崎の原爆についてふれている。日本での最大の感銘は広島にあったらしい。

「原爆から立ち直った日本」というレポートをカストロに提出している。

■キューバ建設
革命政府の指導者たちは行政のイロハから勉強しなければならなかったが、チェの勉強ぶりは、徹底していた。
国立銀行総裁に就任したチェは、毎朝8時に出勤。仕事が終わると、財政経済専門家の講義を受け、その合間に本をむさぼるように読んだ。いつも本を2、3冊自動車の中においていた。暇さえあれば読んでいた。工業と経済に関するもので非常に勉強していた。

2、3時まで部屋の電気はついていたという。

チェは吸入器を常に使っていた。発作が起きるととても苦しそうで脂汗を流し、目の下にクマができていた。人目につかないように吸入していた。

何かを書くとき正しく書くことを心がけていた。アレルギー的だった。部屋に大きな黒板があって誰かが間違えたことを書くと必ず直していた。

レーニンとフィデルという言葉が書かれてあり、そこが間違っていると
「レーニンはこんなふうには書かなかった。どの本のどのページを見てみろ」といった。チェのいうとおりだった。本を読む速度も早かったという。

工業相として、職務に献身した。
チェ自身も工業についてよく知らなかったが、猛烈に勉強してニッケル鉱山の開発や石油の採掘、金鉱業製品の綿密な調査もチェが行った。

サトウキビ自動刈取機や積込機など、チェの設計で作らせたが、のちにソ連から輸入されたものと比べた際、性能に大差なかったという。

彼は努力しないものには常に厳しかった。理由もなしに人を叱ったことは一度もなかった。(オマル・フェルナンデス氏)

チェは奥さんや子供まで労働奉仕にかりだしていた。

趣味について。
工業相の同好者を集めてチェスのリーグ戦をやった。
チェはいつも上位を占めていた。
ある日、チェスの指導にやってきた人とチェが対戦して勝った。このことを子供のように喜び、のちのちまで自慢した。

ゴルフはアルゼンチンの医学生時代に覚えたもの。
カストロと回った記録も残されているという。

子供の頃から犬が好き、同じく犬好きのカストロと何時間も犬の話で盛り上がり、官房長官をあきれさせた。カストロは血統の正しい犬を集め、チェは雑種しか飼わなかったという。「ムラヤ」という名の雑種を飼ったが、キューバを出たあとカストロの犬舎に引き取られた。

キューバ危機の際、
西部軍司令官になったチェは動員令が解除されたとき頬に傷を負っていた。
暴発した弾丸が頬から入って奥歯を吹き飛ばした傷だったが、入院することなく執務を続けながら医者を呼んで治してしまった。

価値観、金銭感覚
「何キログラムの肉が食べられるか、年間何回海岸に遊びに行けるか。現在の給料でどれだけ美しい輸入品を買えるか。そんなことは問題ではない。」

「本は戦争の事実について語る以外のことは何もしない。お金は自由にお使い下さい。」といって、自身の著「革命戦争の道しるべ」の印税受け取りを拒否した。

ニューヨークでの第19回国連総会で世界の代表の前で最初で最後の演説をした。
他の代表が背広にネクタイだった中でチェひとりだけ戦闘服に葉巻を離さなかった。
平和共存が大国間だけで保たれても意味が無いこと。大国がいかに小国の権利と自立を踏みにじっているかを世界に訴えた。

チェにとっての社会主義は自身のいう「人間による人間の収穫の根絶」

いったん、手にした権力を自ら放棄して困苦に満ちた新たな戦列に加わる例はなかった。チェ・ゲバラが最初にそれをなした革命家だった。

キューバを去る際、子どもたちにあてた手紙
「愛するイルディタ、アレディタ、カミーロ、セリア、エルネスト
おまえたちがいつかこの手紙を読むときはわたしはそばにいないでしょう。
幼いものはわたしのことを覚えてもいないでしょう。
おまえたちの父は自分が信じたように行動し、信念に忠実だったと思います。
立派な革命家に成長しなさい。自然を支配できる技術を身につけるようにうんと勉強しなさい。
・・・
世界のどこかで不正が行われるとき、いつも強く感じるようになりなさい。

チェは離婚したイルダとの間に生まれたイルディタと再婚したアレイダとの4人の子供を可愛がった。
キューバを去ってからもイルディタの誕生日には愛情のこもった手紙を送った。
イルディタが熱を出して倒れたときは見舞いに来た。
電話を何回もかけてきたし、アレイダの娘が遊びに来ることも、イルディタが遊びにいくこともあった。

イルディタの誕生日に書いた手紙
一人前の女性になったときにはおまえも戦いに加わらなければならない。
それまでは多いに革命的であるために準備しなさい。
できるだけ勉強し、いつでも正しいことに賛成しなさい。
・・・
学校でも最優秀であるよう戦いなさい。
勉強と革命的な態度。
あらゆることにおいて優秀であるという意味は、
よい行為、自律、革命に対する愛、同志愛などのことです。
・・・」

■三大陸連帯機構あてのメッセージの一部。
ぼくらのすべての行動は帝国主義に対する戦いの雄たけびであり、人類の敵、北アメリカに対する戦いの歌なのだ。どこで死がぼくらを襲おうとも、ぼくらのあげる鬨の声が誰かの耳に届き、誰かの手がぼくらの武器を取るために差し出され、そして誰かが進み出て機関銃の断続的な響きと新たに起こる鬨の声との相和した葬送歌を声高らかに歌ってくれるならば死はむしろ歓迎されてよいのである。

■ボリビア
ボリビア南東部ジャングルで39歳の誕生日(6.14)の日記の最後に
「わたしは39歳になった。ゲリラ戦士として自分の将来について考えねばならぬ年齢に。いまのところ文句なしである。」

トゥマイニという兵士が負傷して死ぬ際、自分の腕時計を外して、「これをチェに渡してくれ」といった。チェはそれまで戦死した同志の腕時計を必ず家族に渡していた。

戦況が悪化しつつ、自身も喘息の発作で苦しむ中、荷物を背負った小馬が進もうとしないので苛立ったチェが首を激しく鞭で打ちケガを負わせてしまう。
その夜、チェは隊員を集めて言った。
「いまの私は人間の形をしているにすぎない。小馬の一件は自制心の欠如を示す例だ。耐えられないと感じるものはそういうべきだ。今や大いなる決意をするときである。この種の闘争はぼくらを最高の革命家たらしめる機会を与えるのみならず、人間としても進歩させてくれるのだ。どちらも達せられそうにないものは戦場を去るべきだ。」

もともとイゲラのような初めての村落を通過するのはゲリラにとって危険だった。
しかし、チェがそれを選択したのは隊員の一人が病気で衰弱していたからで、ひとりを置き去りにすれば他の隊員を安全にすることも出来たかもしれないが、チェにとってそんな発想はなかった。結果、これが彼を窮地に追い込む。

ボリビア山中で捕らえられたチェはイゲラ村のとある小学校まで運ばれた。
翌日、チェに銃を向けてためらう兵士に、落ち着いた口調で言った。

「撃て、恐れるな!」

カストロによるチェの追悼演説
最も危険な任務に対して喜んで志願する。・・・
彼はこの国に生まれたのではなかったのだ。深遠な思想の人であり、大陸の他の場所での戦いにも夢をかきたてられる人であり、さらにはあまりにも愛他的であり、あまりにも無私であり、つねに至難のことをやりとげるために喜んで命をかける人であった。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする